名称 | |
古事記 | 倭建命(やまとたけるのみこと) 小碓尊(おうすのみこと) 小碓王(おうすのみこ) 日本童男(やまとおぐな) 日本武皇子(やまとたけるのみこ) |
日本書紀 | 日本武尊(やまとたけるのみこと) 小碓命(おうすのみこと) 倭男具那命(やまとおぐなのみこと) 倭男具那王(やまとおぐなのみこ) 倭建御子(やまとたけるのみこ) |
別称 | 倭武命 倭武尊 倭建尊 日本武命 倭武天皇 倭建天皇 倭健天皇命 蔵王権現 |
家系 | 父神 景行天皇 母神 播磨稲日大郎姫 妻神 弟橘媛(オトタチバナヒメ) 宮簀媛(ミヤズヒメ) 両道入姫皇女 吉備穴戸武媛 山代之玖々麻毛理比売 布多遅比売 |
熊曾平定の後、出雲の出雲建(いずもたける)を倒し、大和へ戻った日本武尊だが、その力をますます恐れた景行天皇から、休む間もなく東国の平定を命じられた。
東へ向かう前に、今度は倭姫命から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と、火打ち石の入った袋を授かった。
この地に着いた日本武尊は、敵に欺されて草むらの中で四方から火を点けられてしまいます。
窮地に陥った日本武尊は、とっさの機転で倭姫命から授かった天叢雲剣で草をなぎ払い、火打ち石で逆に敵に向かって火を放った。
炎は向きを変え、勢いよく敵に向かって燃え広がり、無事窮地を脱することができた。
この後、天叢雲剣は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになり、名古屋の熱田神宮にお祀りされています。
ヤマトタケルは伊服岐の山の神を素手で倒すと言って山に登ったけどふもとで出会った白いイノシシは牛のように大きかった。
ヤマトタケルは、白いイノシシは山の神の 使いだろうから、今殺さなくても帰りに殺せばいいと言って山を登った。
すると山の神が、激しい雹(ヒョウ)を降らせ、ヤマトタケルの正気を失わせた。
この白い猪は神の使いではなく、その山の神そのものだったが、ヤマトタケルの勘違いで「神の使い」と言ってしまったために、怒りを買ってしまった。
ヤマトタケルは帰ろうと山を下りたが、その途中、岐阜県関ケ原町の玉倉部(タマクラベ)の清水(シミズ)にたどり着き、休息すると、落ち着いてきた。
そこから当芸野(タギノ)のあたりに到着したとき、ヤマトタケルは、私の心は空を飛ぶくらいに元気だったのに、今は歩くのも難しく足もタギタギしい[道のアップダウンも激しく足も曲がってはれてあがっている]と言った。
それでこの地を当芸(タギ)[現在の岐阜県養老郡養老町とも言われている]と呼ぶようになった。
更に進むとヤマトタケルはひどく疲れてしまい、杖をついてようやく歩けるほどになってしまった。
ヤマトタケルは尾津前(オツノサキ)[三重県桑名郡多度町]の一松(ヒトツマツ)の元に到着したが、前にここで食事をしたときに忘れた刀がそのまま残っていた。
そこを出て三重の村についたときヤマトタケルは足は三重に曲がったまがり餅のようで、とても疲れたと言ったのでそこでその土地を「三重」と呼ぶようになった。
そこから進んで能煩野(ノボノ)[三重県鈴鹿市加佐登町のあたり]に到着して、故郷を想い歌った。
歌い終わって、ヤマトタケルは死んでしまった。
このことを伝えるため、早馬を走らせて、大和に報告しました。
大和にいたヤマトタケルの妻達と子供達は、皆、大和から下ってヤマトタケルが亡くなった場所に来て、お墓をつくり、墓の周囲の田んぼを這い回って、泣きながら歌を歌った。
ヤマトタケルの魂は大きな白い鳥となって、空を飛び、海の方へと飛んで行った。
后と子供達は、竹の切り株に足を切られても、その痛みに気づかないまま鳥の後を追いながら4つの歌を歌った。
この4つの歌は、ヤマトタケルの葬儀に歌われたけど、現在でも、天皇の葬儀の際にはこれらの歌を歌う。
鳥になったヤマトタケルの魂が伊勢から飛び立って、河河内国の志幾(シキ)に留まったのでその地にもヤマトタケルの墓を作った。その墓は「白鳥御陵(シラトリノミハカ)」と名づけられた。
白鳥はそこからまた飛び立って天に向かって飛んで行った。
https://kojiki.138shinsekai.com/yamatotakeru/と焼津神社から